なぜ苦しい思いまでしてテスト(測定)をするのか?

この土日で大仕事が終了して、心身ダメージがなかなか抜けない柴咲コウタです。

 

寒かったと思ったら、暑かったり、雨だと思えば台風が来て・・・

季節性もあるでしょうが、コロコロ変わりすぎて体調不良の要素が揃っている上にこの心身ダメージが・・・

風邪をひいても面倒なので、できれば掛かりたくありませんが。

 

 

さて、前回の記事(スポーツ科学の弊害)でも書きましたが、科学が常に正義というわけではないのがスポーツの面白みだと思います。

プレーヤーからすれば、常に勝つ方法を知りたいという心理もありますが、勝ったり負けたりするから面白みがあるのではないのかな?と思います。

コーチングの勉強をしこたまやってきたのにも関わらず、未だに完成を見ないということは、恐らく答えや完成というところはないのだと思います。

所変われば条件も違うはずですし。

しかし、それを全て均質化した研究室でのデータでのランキング戦ではないので、何がどう影響するかなんて全てわかったもんじゃないです。

 

なのに、なんですべて均質化した研究室でのテスト(測定)を実施するのでしょうか?

ただでさえ苦しいのに・・・

 

テストをするということは、現状が見えるということです。

これは、あるものだけでなく、無いものも見えます。

モノの見方は人それぞれですが、よく出る例として、ボトルの半分まで水が入っているのを見て、「まだ半分ある」のか「もう半分しかない」のかは考え方次第だと思います。

逆に考えれば、ボトルの中の水と空間の関係が出てきます。水が増えれば空間は減り、空間が増えれば水が減ります。これが相補性です。

なのに、人は気分によって悪い所は見なかったり、悪い所を過大評価したり、良いことを過剰に評価する傾向にあります。

 

VO2MAXが高い人は有酸素性の能力が高い、つまり酸素の摂取量が多いということですが、逆に言えば酸素借(無酸素性の能力)ができていない場合があります。

VO2MAXが高くても、ペースの上げ下げに対応できず付いていけなかったり、起伏が激しいコースで脱落してしまうのはそういう事が影響していると考えられます。

 

往々にして、人は見たいものしか見ません。それもかなり気分に左右されます。

だから客観的指標を出すためにテストをするのですが、そのテスト項目も持久系の人は持久系の指標しかテストしません。

逆に、無酸素性能力も見ないといけないにも関わらず・・・

 

短期的に見れば、VO2MAXなんてそんなに変わりません。

長期的に見るならまだしも、問題は競技の結果の方だと思います。

 

競技成績(調子)が悪ければ、当然、測定値の落ちますが、その要因は多岐にわたり、例えば、風邪をひいたのか、徹夜したのかなど目に見えてわかればそれが原因ですが、恋人にフラれたとか、なんか気分じゃないというのは果たして客観評価できるでしょうか?

テストでわかるのは、あくまで定規を当てたモノの現状です。

定規を当ててないものも影響は大きいと思います。

一言で言ってしまえば、全部の能力が一回り大きくなれば、一回り強くなるはずなので、無駄なトレーニングはありません。

 

問題は、好き嫌いなくきちんと全部のトレーニングをこなし、それぞれの効果をお互いに引き延ばせるかです。

シナジー効果ってやつですかね。

 

均質化した研究室でのテストも悪くはないです。

でもそうじゃないからって駄目なわけではないです。

自然の中を走るのも多様な効果があるはずです。

一番は信念を持つことだと思います。

 

研究室テストが一般には向かない理由は

「スコアを期待しちゃうから」

 

スコア良くても、レースタイムが悪かったら・・・

それはそれで落としどころを作るしかないのです。

コウタはテストマニア、数値マニア、台上のプロにはなりたくないなー

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です