スポーツ科学の弊害

晴れれば暑いくらい、曇れば涼しい、雨なら寒いくらい、朝晩は寒い。

目まぐるしく変わる季節のせいか、体調とやる気が・・・www

3連休も仕事で心身ダメージ来ますね・・・11月は比較的仕事に余裕が見えているから頑張らないと・・・

ということで、ジムに行こうと思ったのですが、どうもやる気が出ない。

背中や肩が張っている感じがするので、今週は回復週でもいいかなーと変更。

 

季節がいいからか、ジムに申し込む人も増えたのか、ジムが混んでてウエイトも待ち時間があったり、プールがレーンいっぱいになったりと、少しやりにくい感じになっているのもモチベーションダウンの一因です。

(ウォーキングとスイムのレーンは分けた方がいいし、スイムもレーン内往復ではなく、往路と復路でレーン分ければいいと思うんだ。そして、ウォーキング同士同じレーンでやって、スイムは急に平泳ぎとかバタフライしないで欲しい・・・)

昨今では、情報が流通したり、簡単に手に入れられるようになった上に、やれ東京五輪に向けてスポーツ科学を基にしたトレーニング!なんて簡単に言われるようになりました。

正直なところ、ここまでスポーツ科学が進歩しながらも、ジムに通っているといつも同じことやってる(様に見える)オッサンやオバサンが多いです。

勿論、自分も週に2~3回程度しか行っておらず、端から見たらいつもウエイトしかしてない人に見えようと思います。実際は中身を変えてるのですが。

科学的なトレーニングとは一体何なのか・・・それは、「一般化した理論である」ということです。

 

よく、科学的に解析~なんて言ったり、トップレベル選手の動きと比較~なんて言うと聞こえがいいですが、根本的な問いが抜けています。

 

「あなたはトップレベルなのですか!?」

 

コウタも含め、大体の人が違うと思います。筋力も違うし、年齢も違うし・・・

なので、次元が違い過ぎて参考にならないのです。

 

また、トップレベル動きを解析する手法として大きく2つの方法で説明されている場合があります。

①個別の解析

②平均化しての解析

 

①は言うまでもなく、その選手の動作解析です。例えば「100mのボルトの走り」とか、「100mのガトリンの走り」といったものです。

これは速い人の動きをちゃんと解析できる反面、手脚の長さといった形態的な部分、どこでどうパワーを発揮しているか?といった筋力的な部分、そしてクセといった神経的な部分の「その個人の特徴」が色濃く出る傾向にあります。

あなたがボルトやガトリンの双子やクローン、一歩譲って親戚であれば、その通りやればよいのですが、きっとあなたはボルトやガトリンではないと思います。

なので、丸々適用はできないのです。

 

②平均化しての解析とは何でしょうか?

平均化しての解析とは、速い「奴ら」、つまり集団の傾向を解析したものです。

例えば、「100mオリンピック決勝レースを走った選手の走り方」、「インターハイ100m決勝レースを走った選手の走り方」の様に同じレベルであろう選手の動きをまとめものです。

同じレベルにあるので、この水準に行くには、こうすればよい!というイメージが付きやすいので、参考になります。

しかし、これもそこまで参考にならない部分も多いのです。

 

どういうことかというと、

例えば、「100mオリンピック決勝レースを走った選手の走り方」の場合、オリンピックの決勝を走る選手のほとんどが黒人選手であるということで、よくよく見てみると「100mオリンピックの決勝レースを走る黒人選手の走り方」となってしまうのです。

「インターハイ100m決勝レースを走った選手の走り方」も同様で、背が高い人が多い、あるいはその逆、桐生選手の様な怪物高校生がわんさかいた、あるいはいなかったというので平均が変わります。もっと言えば、決勝でガチガチになってしまった人の動きも入っているかもしれないということです。

つまり、グループの構成メンバーによって左右されるということになります。

実際は、平均なので、速い人と遅い人が混ざるので、極端にそこまで変わることが無いのですが、この平均化したものが、傾向として比較され、速く走る為にはこういう風にするとよい!とされるわけです。

中学生、高校生、シニア、トップで速く走る要素は同じかもしれませんが、実際の色々は違ってくると思います。速く走る方法が知りたいという選手が目指すところは、桐生選手の様な領域なので、自分がその領域に近くないと、これまた参考にならない可能性があります。

さて、皆さんが知りたいのは、「俺が今より速く走る方法」だと思います。

①と②のどっちとの比較がいいんだ!と気になるでしょう?

 

答えは簡単。

 

両方です。

 

先にも言った通り、コウタも含め

「あなたはトップレベルなのですか?」というところにあります。

 

そうでなければ、②でも速くなる要素を身につければ、必ず速くなります。しかし、速くならないということは、その要素が身についていない、実現できていないということになります。

そして、トップレベルでなければ、①で個別に分析しても、理想的な走りになっているわけがありません。逆に①でわかった強烈な個性を、②に向けて悪いところは修正しなければいけませんが、よいところまで修正してしまい、結果、無難な走りとか、個性のない走りとなる可能性があります。

無難とか個性のないというのは、武器が無いのと同じです。

 

スポーツ科学の弊害はまさにここにあります。

スポーツ科学は、客観的に分析するための方法、手段であることと、ガイドラインということの2つにしかなりません。

つまりは、杓子定規と教科書にしかならないのです。

でも、決められた杓子定規と教科書で世の中の全てを解析できないのと同じように、スポーツの全てを解析できないのです。

 

逆に、全てを解析されたら、均質化した選手が出てきてスポーツがつまらなくなる可能性があります。

スポーツ科学に頼りすぎると、優等生はできるけど、スターは出てこないかもしれないのです。

 

VO2MAXの話もそうですが、速い人は高いのは当たり前です。トップレベルの問題は、高くても低くても勝てるか?というところにあります。

VO2MAXの値で競う大会であれば高い方がいいのですが、実際走って、決められた距離をいかに短い時間で走破するかが問題です。その場合、VO2MAXは構成要素の一部にしかなりません。他にも影響する因子はたくさんあります。しかし、その因子は全て解析されているわけではないですし、互いに影響し合っているのです。

 

勘や経験とスポーツ科学の、両輪のバランスが大事ですね。

 

トライアスロンが一般には向かない理由は、

「科学では語れない得も言われぬ魅力があるから。」

 

評価は記録でされますが、記録系種目は速くなるだけが魅力の全てじゃないのです。

ランナーズ・ハイ(High、灰、廃・・・)になるのも乙なものですよ。

“スポーツ科学の弊害” への1件の返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です